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第636号 2021/1/30

 ☆………………………………………………………………………………………☆ ☆    Let's go spiritual with your angels☆ 第636号 2021/1/30     ☆  ☆ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄☆ ♪人生をエンジェリックでハッピーにしたい、あなたのために♪ ☆1… 焦点 …………………………………………………………………………☆ 神だけが真に実在していて、それ以外のものは実在していません。 神に外側はなく、神に創造された私たちは、今も、神の内側に存在しています。 だからこそ、私たちは、神と同質のものであり、 愛でないものになることなどできないのです。 でも、私たちは、自分が愛でないものになり、神と離れ、 愛のない世界を見ていると信じています。 私たちは、愛でないもの ー 争いや苦痛や破壊や欠乏など ー を見ては、 ため息をつきながら、自分がそれにふさわしいと思い込んでいるのです。 私たちがそのような幻影を見ているとしても、愛に外側はなく、 私たちは愛以外のものではないのですから、いつも、どこにでも、愛は、存在しています。 私たちは、愛に覆いをかけて、その上に、自分が信じているものを 映し出しているだけなのでしょう。 自分ではそのように自覚していなくても、私たちは、 愛でないものを見たいと望んでいるのです。 だとするなら、その意図が変化すれば、私たちが目にするものは変化するはずです。 私たちが今見ていると信じている肉体の目は、誤った目的のために使われていますが、 私たちは今でも愛なのですから、肉体の目ではなく、 愛のまなざしですべてを見ることができます。 そして、すべての形象、物質、状況を超えて、愛を見ることができるのです。 私たちが日常的に見る、あらゆるもの ー タオルや、テーブルや、ボールペンなど ー  そのすべての中に、神の愛は宿っています。 私たちは、おそらく、誤ったところに焦点を当て、 ないものをあると思い込んでいるのでしょう。 私たちは、真に存在するものだけを見ることができるように、 自分では気づいていない意図が変化するように、 神にお願いすることができます。 私たちは、自分の嫌いなものの中にも神が宿っているとは思えないかもしれません。 しかし、「そんなはずはない」という反論

第635号 2021/1/23

 ☆………………………………………………………………………………………☆ ☆    Let's go spiritual with your angels☆ 第635号 2021/1/23     ☆  ☆ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄☆ ♪人生をエンジェリックでハッピーにしたい、あなたのために♪ ☆1… 真の自分と出会う …………………………………………………………☆ エゴは、実在していません。 だから、エゴは、常に、自分が実在しているように見せかけるために、 自分を定義し続けます。 自分は几帳面な性格だとか、果物が好きだとか、モーニングルーティンはこうだとか、 部屋が片付いていないと落ち着かないとか、こだわりは少ない方だとか、 健康に気をつけているとか、不正を見過ごせないだとか・・・・ それらはどれも、真の私たちとは無関係であり、真の価値に比べれば、 ガラクタのようなものでしかありません。 私たちが、真の自分との出会いを果たした後では、私たちは、真に価値あるものと、 エゴが価値があると言い張るだけで、本当は価値などないものを 見分けることができるようになります。 私たちは、誰かに自分を説明するときに、エゴの言う通りに説明するかもしれないし、 自分の行動の中に、特定の傾向があるのを見つけるかもしれませんが、 それでも、それらが真の自分とは何の関わりもないのだと知っています。 私たちは、自分を定義するものを一生懸命に集めて、 大切にとっておこうとする必要などないことを知り、 エゴの宝物を解放して、真の宝物を受け取ることができるのです。 私たちは準備ができています。 **** 目を閉じて静かに座り、ゆったりとリラックスしましょう。 心を開いて、真の自分を見たいと意図します。 明るさと優しさが満ちるように感じられ、あなたの前に、真の自分が現れます。 その自分は、いつも鏡で見ている自分の姿ではないかもしれません。 姿形ではなく、ただ、光を感じるかもしれません。 姿を認識した場合でも、その形象はすぐに消え、光だけが感じられるかもしれません。 いずれにしても、神聖で、偉大で、慈悲に溢れたその光が、 真の自分自身であるということがわかります。 あなたは、ごく自然に、その自分とひとつになりたいと感じます。 手を伸ばして、真の自分に触れ、その

第634号 2021/1/16

☆………………………………………………………………………………………☆ ☆    Let's go spiritual with your angels☆ 第634号 2021/1/16     ☆  ☆ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄☆ ♪人生をエンジェリックでハッピーにしたい、あなたのために♪ ☆1… 暗闇に光を …………………………………………………………………☆ 私たちは、自分の中にある(と信じている)ものを世界の中に見ることになります。 私たちが目にするものは、どのようなものであっても、 私たち自身が見たいと望んだものに他なりません。 例えば、嫌悪感を感じるような状況に出くわした場合、それは、 自分を戒めるためだったり、そこにかかわる人と自分とは違うと思うためだったり、 世界に危険があると信じ込ませるためだったり、 神は信じられないと思わせるためだったり、 表面的な反応や感情とは別に、隠された自らの意図があるのです。 私たちは、そのような自分の中にある隠された意図を忘れることにしているので、 常に、自分が外側の状況に翻弄されているように見えます。 それも実際には、外側の状況と自分は関係がない、と思うためのものなのです。 そう思っていれば、忘れ去っている部分は、癒しから除外され、エゴは安泰です。 私たちは、自分が何をしているかを思い出す必要があります。 それは、自分が悪いと思うためではなく、自分の認識が間違っていることを、 神に示してもらい、癒してもらうためです。 私たちが神から離れて判断しているように見える心(エゴ)は、 大きく3つの部分に分かれています。 (1)醜悪で残酷な悪の部分 (2)善良で常識的な部分(顕在意識) (3)自分を監視し、戒め、処罰する部分 神の子は、自分の中に(1)悪の部分ができた、または、自分がそうなってしまったと考えて、 その部分を拒絶し、それは自分ではないと闇の中に隠して、 (2)善良で常識的な部分として、自分を限定し、認識することにしたのでしょう。 しかし、それは、善と悪の対立のようなものを自分の中に生み出して、 (2)善良で常識的な部分は、常に、自分が(1)醜悪で残酷な悪の部分に 取り込まれてしまうのではないかと恐れ、(3)自分を監視し、戒め、処罰する部分を 必要としたのです。 この(3

第633号 2021/1/9

☆………………………………………………………………………………………☆ ☆    Let's go spiritual with your angels☆ 第633号 2021/1/9      ☆  ☆ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄☆ ♪人生をエンジェリックでハッピーにしたい、あなたのために♪ ☆1… 自分で決められる …………………………………………………………☆ 愛の真実とは、どこまでも真実であり、誰にも、何も変えることはできません。 それは、神が誰によっても変えられないということと同じです。 もし、神が不変でなく、一貫性もないのなら、それは神とは言えません。 真実は不変であり、だからこそ一貫性があり、神は神であり、 愛が、愛でないものになることはありえないのです。 だから、この世界は実在せず、愛である神が実在するとも言えます。 私たちは、神によって創造された神と同質のものであり、 神によって創造されたのですから、誰にも、何も変えることはできません。 それが自分の決断であったとしても・・・・ 私たちは、何度も、神から同じことを繰り返し伝えられてきました。 あなたは、純粋な愛の光である。 あなたに罪はない。 あなたは、すばらしい存在である。 あなたは、すべてが与えられている。 言葉が変化しても、伝えている真実はひとつです。 それなのに、私たちは、自分の思い込みによって、その言葉を振り払うようにしてきました。 よく考えれば、ただ、神の言葉を素直に受け入れればいいだけのはずなのに、 私たちは、どうしたらそれがわかるのかを神に尋ねることなく、 「でも、そんな風に思えない」と拒絶してきたのです。 この世界のありとあらゆることが、神の言葉を否定するための証拠と思われてきました。 しかし、今では、私たちは、世界は、私たち自身が作り出した幻であることを知っています。 その世界の上で、展開されてきた様々なことは、自ら作り出したものであり、 どれほど、実在性を感じていたとしても、それも自らを欺いているのであり、 証拠の信頼性は失われているのです。 私たちは、この世界の何らかの体験や記憶によって、 自分は神の言葉通りではないと言い張りますが、 実際には、神の子どもである自分を否定して、その証拠を作り上げたのです。 私たちは、自分が誰であるか、

第632号 2021/1/2

☆………………………………………………………………………………………☆ ☆    Let's go spiritual with your angels☆ 第632号 2021/1/2      ☆  ☆ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄☆ ♪人生をエンジェリックでハッピーにしたい、あなたのために♪ ☆1… 愛の強さ ……………………………………………………………………☆ 愛は、神そのものであり、神がすべてで、愛以外のものは存在していないのですから、 本来、愛には対立するものなどありません。 それでも、愛には強さがありますが、それは、愛が不動であり、不変であり、 一貫しているということによります。 この世界の目的のひとつは、愛の無力さを証明することであり、この世界の中では、 不動であることも、不変であることも、一貫性も、同じように無意味に見えます。 この世界には、死が君臨していて、その前では、愛ですら、力なく佇むしかないようです。 死が存在するなら、神は存在しないということになってしまいます。 しかし、愛である神から見れば、私たちは神の創造物であり、愛であり、 死は存在していません。 死とは何でしょう。 神の子どもである私たちが、自らが変化したと考え、 愛ではなくなった自分には存在価値がなく、消えるべきものだと考えたことで、 死という観念が生まれたのだとしか思えません。 だから、自分は脆弱な肉体に閉じ込められた死にゆくものであり、 時間とともに、あらゆるものは失われ、 外側の何かによって、常に危険にさらされ、 傷つくことに怯えていなくてはならないということになったのでしょう。 大切なのは、それらすべてが、自分自身の思い込みであるということです。 私たちが、自分の内側深くに隠されたその意図を見つけ、それを神に差し出せば、 愛によって、誤った意図は訂正され、すべてが変化します。 私たちは、死ぬことはなく、傷つくこともなく、何かを失うこともなく、 それらを証明するために、世界を利用する必要もありません。 相変わらず、肉体が存在し、世界の中を歩いているように思っていたとしても、 私たちの中で癒しが起これば、私たちは、傷つく可能性を忘れ去ることができます。 もし、私たちが傷つく可能性を忘れ去るなら、この世界で有用に思えていた誤りもまた、 消