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第731号 2022/11/26 「真実の自分」

 ☆………………………………………………………………………………………☆ ☆    Let's go spiritual with your angels☆ 第731号 2022/11/26    ☆  ☆ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄☆ ♪人生をエンジェリックでハッピーにしたい、あなたのために♪ ☆☆☆ 東京での対面セッションは12月12日(月)まで ☆☆☆ ☆1… 真実の自分 …………………………………………………………………☆ 愛である神のメッセージは、私たちは神に創造されたときのまま変化しておらず、 永遠に清らかであり、罪はないと伝えます。 愛への道とは、真実の自分に戻る道ですから、私たちが、真実の自分を取り戻すためには、 そのメッセージを受け入れなければいけません。 私たちは、長い間、自分を自我だと勘違いしてきました。 自我とは何でしょう。 それは実在しておらず、だから本当は、説明することは無意味ですが、 私たちが、実在していないものを実在していると信じているのですから、 誤解を解くためには、それを明確にする必要があります。 自我は、自分が神(愛)と離れている信じている、心の小さな切片のようなものです。 それは、自分を守るために、実在しない境界を維持しようと、戦っています。 自我が戦っている相手が何なのか、自我はわかっておらず、何故自分が不幸で、 恐れていなければいけないのかも、理解することができません。 自我は、自分だと信じている心の切片を守るために、肉体を利用し、 それを明確な境界として、自分が他のすべてと切り離されている証拠としています。 真実の私たちは、自我とは何のかかわりもありません。 愛と、自我は、まったく無関係なのです。 そして、自我が、自分がしたと信じている罪は、どこまでも実在しておらず、 自我そのものも実在していません。 だからこそ、私たちは、変化していないのであり、清らかであり、罪がないと言えるのです。 私たちの清らかな本質は、肉体ともまたかかわりがありません。 肉体は自我にとって罰の温床として使われてきましたが、そのような必要などないのです。 私たちの真実は、自我とも、自我の行いとも、まったく関係がありません。 私たちが今、自分をどのように認識していたとしても、 自我が現在の自分の原因だとする過

第730号 2022/11/19 「当たり前の平和」

 ☆………………………………………………………………………………………☆ ☆    Let's go spiritual with your angels☆ 第730号 2022/11/19    ☆  ☆ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄☆ ♪人生をエンジェリックでハッピーにしたい、あなたのために♪ ☆☆☆ 東京での対面セッションは12月12日(月)まで ☆☆☆ (詳しくはメールの後ろで) ☆1… 当たり前の平和 ……………………………………………………………☆ 自我にとって、一体性の自覚を阻むことが、自らの維持のための重要なミッションです。 ですから、拒絶、批判、嫌悪、攻撃は(どれも恐れを基盤にしたものですが)、 自我の武器のようなものです。 私たちが外側に嫌悪感を抱く誰かを見るとき、そこで、自我が得るものは、 その誰かと自分が別の個体であるという安心感です。 私たちの表面的な意識では、その誰かに嫌悪を抱かせる原因があり、 嫌悪は、その原因の結果としてやむを得ないものであり、自分に原因はないと考えます。 しかし、自我の隠された深層意識の部分で行われているのは、 自らの中で拒絶したものを外側に投影して、それを嫌悪することで、 本来起こり得ない内面的な分離を実在するかのように見せる、自己欺瞞です。 私たちの表層意識の努力は、その誰かの中に見ている嫌悪を抱かせる特徴を、 自分の言動から締め出すことです。 「あんな人にはなりたくない」と考えて、自分を戒めるような・・・・ だから、私たちは、このようなことをしてはいけないというリストを内側に持っていて、 日々、そこに項目を書き加えていきます。 そのリストの項目は、常識やモラルや正義という名目で大切にされ、共有され、 力を与えられていきます。 そして、私たちが誰かを嫌うことには正当な理由があると、自分の信念を強化していくのです。 一体性を取り戻すために必要なのは、その誰かに投影した原因を自らの内に見つけ、 光によって、それが実在していないのだと明らかにしてもらうことです。 例えば、その誰かが嫌いな原因が、ずるいことであるなら、そのずるさは、 はじめに自分の内側で認識され、拒絶された後に、外側に投影されたものです。 許しは、その誰かに対してするものではなく、その誰かを通して、 自らの内側に見

第729号 2022/11/12 「警戒を解くために」

 ☆………………………………………………………………………………………☆ ☆    Let's go spiritual with your angels☆ 第729号 2022/11/12    ☆  ☆ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄☆ ♪人生をエンジェリックでハッピーにしたい、あなたのために♪ ☆☆☆ 東京での対面セッションは12月12日(月)まで ☆☆☆ (詳しくはメールの後ろで) ☆1… 警戒を解くために …………………………………………………………☆ 愛の許しとは、「悪」という誤った概念からの完全開放です。 誰かや何かによって傷つけられたり、損失を被らされたり、 または、自分自身の何らかの「悪しき」思考や行為に関して、 自我は「許せない」と言います。 それは、自我にとって、悪が実在するという信念を維持するためのものであり、 つまり、許したくないということであり、許さないという決断のようなものです。 許さないとは、具体的には、どうすることでしょう。 ごく単純に言い換えれば、「あなたの行った悪事を私は忘れない」 ということでしょうか。 「あなたが悪事を働く可能性があるということを覚えている」とか・・・・ 「あなたは悪であると認識し続ける」とか・・・・ さらに、怒りや恨みの感情を持ち続け、具体的な行為を起こすかどうかとは別に、 内面的には、その相手を攻撃し続けるということでしょう。 再び、相手によって攻撃されることを恐れ、相手との間に境界線を引き、 警戒し続けるということでもあります。 もし自我が「許す」と決めた場合でも、許さない場合に起こる内面的な動きのうち、 「怒りや恨みの感情を持ち続け、その相手を攻撃し続ける」ことを止めるだけです。 もし、自我の主張通りに、悪が実在するなら、「許さない」こと 「悪事を記憶する」ことは、自分の身を守るために、必須の要件です。 しかし、私たちは、神の声を聞き、悪が実在しないという真実を思い出しています。 悪が実在せず、悪が実在してるかに見せかけているのは、 自我の信念によるものであり、その信念は訂正されるべきなのですから、 恐れを引き起こす記憶を保持する意味などありません。 私たちは、今や、積極的に、神の愛の許しを、すべてに差し出すことができます。 それは、過去を手放すと言い換えることも

第728号 2022/11/05 「天の許し」

 ☆………………………………………………………………………………………☆ ☆    Let's go spiritual with your angels☆ 第728号 2022/11/05    ☆  ☆ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄☆ ♪人生をエンジェリックでハッピーにしたい、あなたのために♪ ☆☆☆ 東京での対面セッションは12月12日(月)まで ☆☆☆ (詳しくはメールの後ろで) ☆1… 天の許し ……………………………………………………………………☆ この世界は、悪が実在すると信じられています。 「悪」というほどのことはなくても、良いか悪いかの違いがあり、 それぞれ程度の差があることになっています。 だから、天使たちのメッセージが「あなたは悪くない」と告げると、 「自分が悪くないなら、相手が悪い」のだと解釈されてしまいます。 この世界での許しとは、「あなたのした悪いことを私は見逃してあげる」 というほどの意味であり、その人の行いは記憶として保持されます。 そのようにして許された人は、悪い人(悪いことをする可能性のある人)という ラベルを貼られたままです。 そして、もしまたその人が同じような行いをしたときには、すかさず過去を持ち出して、 二重に悪のラベルを貼り付けるのです。 自我は、信頼した自分は裏切られたと主張して、傷ついたふりをし、 そのような悪人に許しを施そうとした自分は善人であると、 結局のところ、自分が良い人であることを証明するために、 ポイントを稼いでいるようなものです。 これらは、自我が考え出した偽りの許しであり、愛とは無関係です。 愛は、誰も何も悪くないと伝えます。 悪は存在せず、この世界も、時間も実在しておらず、それらは自我の妄想にしか過ぎません。 私たちは、傷つくことなどありえず、愛の中に、程度の差はないのです。 だから、愛は、自我の財産である記憶を手放しなさいと言うのです。 自分が被った被害を記憶し、警戒していなければ、 また、同じ目に遭わされる・・・・ そのように自我が訴える危険は、実在していません。 愛のもたらす許しは、忘却と同じです。 その人のした悪い行いも、自分が被った被害も、傷跡も、 それを思えておきたいという気持ちも、 すべてを愛の光の中に差し出せば、それらは光の中で、薄れて消えていき