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第670号 2021/9/25

 ☆………………………………………………………………………………………☆ ☆    Let's go spiritual with your angels☆ 第670号 2021/9/25     ☆  ☆ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄☆ ♪人生をエンジェリックでハッピーにしたい、あなたのために♪ ☆1… すべてが愛になる …………………………………………………………☆ この世界に、神は不在だと私たちは信じてきました。 「神様はどこか空の高いところから、私たちのことを見ている」 幼い頃から、そんな風に教えられて、イメージしてきたのです。 しかし、神はすべてであり、神が不在の場所はありません。 だとするなら、この世界とは何なのでしょう。 神は、私たちの信じている世界は実在しない、と何度も繰り返し伝えてきました。 しかし、私たちはあまりにも世界に囚われており、実在しないという真実は、 自分が世界の中にいるという認識とあまりにもかけ離れています。 ですから、愛である神は、この世界と、真の実在との間に、 私たちが歩むための橋をかけ、私たちを導いているのです。 私たちが真に解放され幸せになるためには、本当は実在しないものを、 実在するものとして扱い、私たちの幸せに役立つように利用しなくてはいけません。 自我は愛を締め出してこの世界を作ったと主張していますが、 自我のそのような力とは、本来自我のものではなく、愛から奪い取ったものであり、 いうなれば自我は、愛に寄生しているようなものです。 自我がどのように主張したとしても、私たちの心から、 完全に愛を追い出すことなどできないのです。 この世界とは薄いスクリーンに映し出されている映像のようなものであり、 スクリーンとして利用している場所も、愛の中でしかありえません。 愛のない場所は存在しないからです。 私たちは自我と約束を交わし、愛を見ないことにしているようなものです。 ですから、自ら、愛を見たいと望むなら、自我の作り出した幻想が覆い隠した 背後にある愛を見ることができます。 私たちは、自らの内側にある愛に呼びかけ、その愛を世界に差し出すことができます。 そして、私たちは、私たちが見るすべてのものの中にある愛に 呼びかけることができるのです。 自我に利用されているかに見えたすべては、喜んで愛

第669号 2021/9/18

☆………………………………………………………………………………………☆ ☆    Let's go spiritual with your angels☆ 第669号 2021/9/18     ☆  ☆ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄☆ ♪人生をエンジェリックでハッピーにしたい、あなたのために♪ ☆1… 神への恐れの先 ……………………………………………………………☆ 神との一体性や、愛である自覚は、私たちの本質にとっては、自然なものです。 ですから、それが取り戻されるまでは、何らかの誤りが、 神と自分という認識の間に、挟み込まれているということになります。 神への恐れがあれば、一体性の認識が阻まれるのは当然ですが、 神への恐れを超えていくと、その先には、自分自身の本質への恐れが現れます。 高次な霊的レベルでは、神と自分は一体であり、「神」への恐れが取り除かれたとき、 「自分」への恐れが残るのです。 私たちは、自分自身の心を恐れています。 この世界では、「本性を見た」というような表現がされますが、それは基本的に、 表面的に作り上げている自我の背後にある、より悪いと思われる自我が 言動に表れたときに、「いい人に見えて実は悪い人だった」というような、 ネガティブな意味合いで使われます。 本当は、どちらも自我に過ぎないのですが、これは、私たちが、 悪い部分こそが、自分の本性(本当の自分)であると信じていることの表れです。 私たちは、悪い自分がいると信じ、その自分と離れることを選びました。 そのことによって、必然的に神と自分も離れているという認識をすることになり、 悪い自分が神に投影され、神が恐れの象徴となったのです。 悪い自分を否定し、亡き者にしたことで、神の子は死んだとされ、 その信念により、愛とは無関係の「死」という観念が生み出されました。 神の子の死によって残ったのは、自我だけであり、本当の自分を葬り去ったので、 自我は自分が誰か知らないのです。 私たちは、愛である神に呼びかけることで、神とのコミュニケーションを復活させ、 神が愛であること、恐れる対象ではないことを理解しました。 しかし、依然として、神との一体性や、愛である自覚が取り戻されていないのは、 真の自分との分離が残っているからです。 神とは一体になりたいけれど、真の

第668号 2021/9/11

 ☆………………………………………………………………………………………☆ ☆    Let's go spiritual with your angels☆ 第668号 2021/9/11     ☆  ☆ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄☆ ♪人生をエンジェリックでハッピーにしたい、あなたのために♪ ☆1… 恐れの目的 …………………………………………………………………☆ 愛である神は、すべてと完全に一体であり、外側はありません。 神は、神不在のように見えるこの世界を創造せず、 肉体によって分断され、個別の利害を持つ心も創造していません。 私たちは、自分が神とは別の存在だと認識していますが、 それは、ありえないことなのです。 本来ありえないことが起きているように見えているのは、 愛である神に対抗しているものがあると信じているからに他なりません。 それは、恐れです。 恐れは愛に対抗し、愛を覆い隠すためのものです。 愛は、恐れのことは知らず、対抗することも対抗されることも理解の範疇外ですが、 恐れにとっては、愛は脅威であり、それを感じないように、思い出さないよいうに、 見ないように、対策を講じることに余念がありません。 つまり、愛が創造していないこの世界の中に私たちが見ているものは、 恐れが描き出した幻想なのです。 奇跡が、この世界のあらゆる事象に対して有効なのは、光の到来によって、 恐れが描き出した幻想を実在しないと思い出させてくれるからです。 恐れとは闇でもあり、その中に愛にはないあらゆるものが存在しているように 信じられています。 破壊、残酷さ、狂気、強奪、暴力・・・・ 私たちが恐れるそのようなものは、恐れの手先のようなものであり、 私たちの心が愛へと戻らないように、常に恐れさせているのです。 しかし、愛に属していないものが、本来愛である私たちの心にあるのは、 私たち自身がそれを招き入れたからに他なりません。 恐れの対象は、様々に見えても、元々は、愛である神に向けられたものです。 神との分離を作り出したは、私たち自身であり、 恐れの役割とは、分離を実在してるように見せかけることなのですから、 愛への恐れ、神への恐れが、恐れの根源です。 静かに目を閉じて、神に呼びかけ、神が光として現れ、 心の奥深くに光が到達しようとするとき、

第667号 2021/9/4

 ☆………………………………………………………………………………………☆ ☆    Let's go spiritual with your angels☆ 第667号 2021/9/4      ☆  ☆ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄☆ ♪人生をエンジェリックでハッピーにしたい、あなたのために♪ ☆1… 暗闇に光を …………………………………………………………………☆ 愛とは光であり、愛に対立するものがないように、光にも対立するものはありません。 愛である神は、すべてであり、神に外側はありません。 私たちは、自分もこの世界も、神の外側に、神と離れて存在していると信じていますが、 実際には、自分自身の認識に覆いをかけて、その陰で、 実在していないものが実在するという想像を膨らませているだけです。 自分の認識に覆いをかけたことで、私たちは、光から逃れ、暗闇の中にいると信じています。 闇は悪と関連付けて考えられがちですが、実際には、単なる隠ぺいでしかありません。 しかも、私たちが隠ぺいしたと思っているものは実在していません。 それなのに、私たちは、闇の中に恐ろしいものがあると思い込んでいて、 それを見ることを、つまり、光を恐れているのです。 闇も実在していませんが、私たちは、闇という観念を利用して、 自分の罪を自らの内に隠しています。 肉体とは、私たちが神との間に儲けた境界であり、神との分離の象徴であり、 その内側は闇であると信じられているものです。 だから、私たちが、光をもたらすべきなのは、 私たちの内側であり、自らの内に光を認識することで、 闇も、そこに隠されていると信じられていた恐ろしいものも、消え去ります。 私たちは、闇の中に隠したと信じているものを、世界に投影しているので、 世界が恐ろしい場所に見えていますが、内側が変化すれば、 私たちが外側に見ているものも変化します。 光は、そこには何もないと教えるだけです。 私たちが何を信じていようとも、私たちは、神と離れたことはなく、 光が消え去ったこともありません。 私たちが、内側に目を向け、光を再び認識したいという意図を持てば、 それは、本来自然なことであるがゆえに、必ず達成されます。 私たちの肉体の目は、闇の中に、ないものを描き出すことに使われていますが、 私たちが神聖な視覚