投稿

3月, 2021の投稿を表示しています

第644号 2021/3/27

 ☆………………………………………………………………………………………☆ ☆    Let's go spiritual with your angels☆ 第644号 2021/3/27     ☆  ☆ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄☆ ♪人生をエンジェリックでハッピーにしたい、あなたのために♪ ☆1… 源への回帰 …………………………………………………………………☆ 愛である神は、愛する我が子に苦痛を与えることはありません。 ならばなぜ、私たちは、苦痛を感じることがあるのでしょうか。 神の子どもである存在に、苦痛を信じさせることができるのは、 神の子自身だけです。 神より強いものは存在しませんが、自分が自分を欺いているのであれば、 その空想の中で、神より強いものを想像することもできるでしょう。 私たちは自覚していませんが、苦痛が自分自身にふさわしいものであると、 頑なに信じているようです。 それは、心の深いところに、自分を決して許さないという気持ちがあるということです。 私たちは、その点において、今でも、神の言葉に耳を傾けず、 自分の判断を優先しているのです。 神は、私たちの幸せだけを望んでおり、だからこそ、自らの言葉を受け入れるように、 私たちを導いてくれています。 癒しも、許しも、奇跡も、私たちの誤った信念を削り取って、小さくし、 やがて、私たちが安心して、それを何の価値も意味もないものとして、 手放せるようにしてくれます。 私たちは、自分で自分を裁き、苦しめていますが、そのことを忘れ果てています。 ・・・・と言うよりも、苦痛が継続するように、自分が自分に何をしたかを 忘れることにしたのでしょう。 だから、私たちは、自分が苦痛を被るとき、それは、自分が起こした訳ではなく、 自分は、被害者であるように思い込んでいます。 それによって、私たちは、自分が運命や外的状況に左右され、 自分ではどうすることもできない弱い存在だと信じ込んでもいます。 私たちは、自分が始めたことを自分で終わらせることができます。 もちろん、それは、神の愛のサポートがなくてはできないことではありますが・・・・ 私たちは、自分がしたことを神のサポートによって思い出し、それによって、 すべての誤りの源を、神によって、訂正してもらうことができます。 自分の解

第643号 2021/3/20

☆………………………………………………………………………………………☆ ☆    Let's go spiritual with your angels☆ 第643号 2021/3/20     ☆  ☆ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄☆ ♪人生をエンジェリックでハッピーにしたい、あなたのために♪ ☆1… 愛される資格 ………………………………………………………………☆ 神は、どれほど繰り返し、私たちを愛していると伝えてきたでしょう。 神の愛は、際限なく、無限であり、区別することがないので、程度の差もありません。 でも、私たちは、どうやら、そのことを本当にはよくわかっていなかったようで・・・・ 私たちは、わかっているつもりで、わかっていないことがたくさんあり、 それでも、神は、真実が完全に受け入れられるまで、 何度でも、繰り返し伝えてくれます。 神の愛は、一貫しており、永遠に変化することはありません。 この世界では、愛されるには理由が必要だと考えられています。 私たちは、自分は愛でない、何か醜いものになってしまったので、 神に愛されなくなったと思い、神から離れて、この世界に逃げ込んできた、 という夢を見ています。 ですから、この世界では、愛は限定的なものであり、 愛されるには、理由や資格が必要だと信じられているのです。 私たちは、自分は決して元の清らかな自分に戻れず、 自分はもう二度と神に愛されることはないと信じていますが、 神に愛されたいという強い望みは、私たちの中から消えることはありません。 神に、と意識したことはなくても、誰もが、愛されたい、受け入れられたい、と感じ、 しかし、神には愛されないと思い込んでいるので、その望みは、この世界では、 神以外の誰かや何かに向けられます。 神から離れたという幻想を基盤に作り出されたこの世界で、 神の代替になるものなどありえず、私たちは、誰かから愛されているように感じても、 その愛に満足することもできないし、それが無くなってしまうのではないかという不安を 払拭することもできません。 「自分は、愛でない、何か醜いものになってしまったので、神に愛されない」 それは、私たちの中心に押された烙印のようなものです。 私たちが、自分自身やこの世界に何の疑問も持たずに、自分の内側に目を向けるときには、

第642号 2021/3/13

 ☆………………………………………………………………………………………☆ ☆    Let's go spiritual with your angels☆ 第642号 2021/3/13     ☆  ☆ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄☆ ♪人生をエンジェリックでハッピーにしたい、あなたのために♪ ☆1… 怒りを許す …………………………………………………………………☆ 怒りとは、恐れと同様に、愛に属するものではなく、実在のものではありません。 ですから、私たちは、外側の何らかの事情が、自分の怒りを誘発すると考えていながら、 その怒りを決して良いものだと受け入れることができません。 怒りを感じる自分が許せず、しかし、どうにか、それを正当化したいので、 正義という定義を作り出し、怒りに存在価値を与えているのです。 それでも、どれほど怒りを正当化しても、自分が許せないという気持ちを 消せる訳ではなく、潜在意識の深いところにあるそれが、 さらに怒りを誘発するという悪循環に陥ります。 怒りを抱く自分が実在するなら、決して許すことなど不可能であり、 自分だと思っている自分は、怒りを感じていると信じているのですから、 自分を許すことができなくなっています。 この世界では、許しは、罪の存在を認識した上で、それを咎めない、というだけであり、 それゆえ、再度罪を犯した瞬間に、その許しは撤回され、 信頼が裏切られたという正義の名の下に、さらなる怒りと罰を正当化します。 そのようながんじがらめの状態から私たちを救うのは、神の愛、神の許しだけです。 神の許しは、すべてを愛のまなざしで眺め、愛の中に怒りは存在せず、 罪はありえず、罰は神に属するものではないことを教えます。 神は、私たちが、「怒りを抱く自分」になったことなどないと、 私たちに思い出させてくれるのです。 私たちは、自分で自分を許すのではなく、神の許しによって、 真実を求めることで、罪深い自分、自分自身の怒りから解放されます。 私たちは、嫌なことをされて怒るのは、正当で当然だと信じてきました。 しかし、怒りの原因となる出来事は、怒りを正当化するために、 自分で作り出しているだけです。 心の深いところを見れば、自分が抱いている怒りは、 この世界のどんなことともかかわりなく、ただ、怒っているだけ

第641号 2021/3/6

 ☆………………………………………………………………………………………☆ ☆    Let's go spiritual with your angels☆ 第641号 2021/3/6      ☆  ☆ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄☆ ♪人生をエンジェリックでハッピーにしたい、あなたのために♪ ☆☆☆ 「ソウルメイト・レイキ」キャンペーン ☆☆☆ (お知らせはメールの後ろで♪) ☆1… 抑圧の原因 …………………………………………………………………☆ 私たちは、自分を抑圧し、制限しています。 なぜなら、もし、自分を抑圧しなければ、自分が人を傷つけたり、浪費したり、 暴飲暴食をしたり、怠けたり、自分勝手に振舞ったりすると信じているからです。 自分の中に、そのような欲望を見て、それを抑圧しており、 自分の「本質」が、そのような恐ろしいものであると疑う余地がありません。 実際に、抑圧を緩めてみたものの、後で後悔するような体験をしたこともあり、 本当の自分は、自由にさせることなどできない、 とんでもないものだという根拠を揺るぎないものにしています。 それは、実態があるように見えるので、愛である神に、どれほど、 「あなたの本質は神聖で美しい存在である」と伝えられても、 信じ切ることができません。 私たちは、自分の「本質」を恐れ、その恐れによって、強烈に自分を縛っているのです。 自分の本質を恐ろしいものだと認識しているので、自分の本質と分離し、 意識の自分を作り上げて、それを守るのに必死です。 そのように自分を認識していれば、ひとつであることも、繋がることも、 恐ろしく感じられ、できないのは当たり前です。 また、恐ろしい自分こそ本当の自分であり、それを変えることができないと信じているので、 自分に絶望しており、妥協の中で、自分をごまかして生きていくしかありません。 そのような心の状態では、常に不安で、落ち着かず、 本質が表に出ないように常に緊張しており、リラックスできないのは当然です。 神の愛がすべてを癒そうとしても、その癒しすら、 自分が守ろうとしているものへの攻撃のように思えてしまいます。 癒し(愛)を避け、今の自分でいようとするのは、自分にとってみれば、善行であり、 癒しをもたらそうとする神は、無理な要求をするように見え、 神も