投稿

10月, 2021の投稿を表示しています

第675号 2021/10/30

 ☆………………………………………………………………………………………☆ ☆    Let's go spiritual with your angels☆ 第675号 2021/10/30    ☆  ☆ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄☆ ♪人生をエンジェリックでハッピーにしたい、あなたのために♪ ☆1… 愛への帰還 …………………………………………………………………☆ この世界は、愛の一体性の上にかけた覆いのようなものであり、 すべて幻影にすぎません。 私たちの五感は、幻影を見、触れて、それが実在しているように、 信じさせるためのものです。 私たちは、自分を愛から切り離された心の一片として認識し、 その中で、世界と肉体である自分という夢を見ているようなものです。 私たちは、自分の幸せのために、自分の心を神に戻さなくてはいけません。 切り離された心などという不可能は、今も起こっておらず、 「そのように認識する」という意図があるだけです。 私たちは、自分のその意図を忘れ、自分の心が自分の思い通りにならないようにして、 「神から離れた自分の安全」を確保したと信じ込んできました。 しかし、神から離れたという妄想の中には、愛でないものしか見られず、 幸せも安全も得ることができないのです。 私たちは、神へと戻る道を選ぶとき、自我の抵抗を感じますが、 それは、私たちが、自我を自分の意図よりも強いものとしたからです。 私たちは、自分が神から離れたという誤った意図を、神の意図より上位におきました。 だから、この世界では、愛が、弱者のように見られるのです。 愛が助けてはくれても、時間がかかったり、十分でなかったりするように思えるのは、 神を弱めたいという誤った願望があったからです。 私たちは、もはやそのような愚かさを通り過ぎています。 気づきは、真の意図をもたらし、愛の力をその本来のところに戻すことができます。 私たちの誤った意図に与えたものですら、その力は神からのものでしかなく、 神の他に、力のあるものなどないのです。 愛の意図は、私たちの意図でもあり、それは、何よりも強いのだという真実を受け入れ、 愛が自由に私たちの心に入れるように、心を開いて迎え入れましょう。 すべての誤りが愛で置き換えられ、私たちは、 自らの真の清らかさを自覚できるよう

第674号 2021/10/23

 ☆………………………………………………………………………………………☆ ☆    Let's go spiritual with your angels☆ 第674号 2021/10/23    ☆  ☆ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄☆ ♪人生をエンジェリックでハッピーにしたい、あなたのために♪ ☆1… 神の救い ……………………………………………………………………☆ 愛である神と一体であるという自覚があれば、私たちは、幸せです。 愛は完全な幸せであり、喜びであり、それに対立するものなどありません。 ですから、自分が愛そのものであるなら、幸せは当然です。 私たちの不幸の原因は、私たちが神と離れていると信じていることにあります。 神と離れたと考えた心の一部が、その中で、神不在の世界や、 肉体としての脆弱な自分を妄想しているのです。 愛である神は、そのような心を救おうとしています。 自我によれば、愛は、自分を滅ぼし、消滅させようとしていることになりますが、 神は、そのような、自我こそが自分だと信じている心が安心し、 病に冒されたような奇妙な妄想から、正気に戻れるように導いているのです。 神は、何も除外せず、何も恐れさせるようなことはしません。 神は、ただ、救おうとしているだけなのです。 恐れは、神と離れたと考えている心の中では、実在のもののように見えますが、 それでも、真実ではありません。 妄想を真実だと信じていれば、その影響を恐れるのは当然であり、 愛である神は、そのような恐れを無視するのではなく、 妄想は妄想であり、真実の光の前では、消えてしまうということを、 何度も示しながら、私たちが妄想から自由になれるように導いているのです。 そのために私たちに求められたのは、愛である神を望むことだけです。 自我ではなく、愛を選ぶという意思を持つことで、愛である神が、 すべてのものごとに入ってきて、奇跡を起こすことができるようになるのです。 そのようにして、神から離れたと信じていた心は、神と離れることは不可能であり、 本当は何も起こっていないのだと理解することができます。 覚醒とは、文字通り目覚めであり、悪夢にうなされていた神の子の心が、 幻想を手放して、神との一体性の自覚を取り戻すのです。 私たちが歩いているのは、そのような道です。

第673号 2021/10/16

 ☆………………………………………………………………………………………☆ ☆    Let's go spiritual with your angels☆ 第673号 2021/10/16    ☆  ☆ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄☆ ♪人生をエンジェリックでハッピーにしたい、あなたのために♪ ☆1… 制限を超えて ………………………………………………………………☆ 愛である神は、今、私たちに、制限を超えて進むことを望んでいます。 制限とは、限定された自分、自我という認識のことであり、 自我とは、神と離れているという主張そのものです。 このようなときには、残り少なくなってはいるものの、自我が利用する恐れが浮上して、 自分の中に、恐れを感じます。 それに流されることがないとしても、心は乱され、 穏やかさを維持することが難しくなるでしょう。 自我は、自分の持っている何かによって、自分がこの世界での生活を維持し、 存在価値があり、安心できると信じています。 自我の持っているものとは、才能と呼ばれるようなものであったり、 容姿であったり、仕事や、プライド、価値観や性格など、 人とは異なる特別な何かです。 しかし、愛は、そのような特別性は必要なく、特別だから何かが与えられる訳ではなく、 私たちにはただ価値があり、一体であるからこそ、すべてを持っているのだと教えます。 この世界にいる間、私たちの必要を満たしてくれるのは愛である神です。 自我は特別性を失えば、自分の所有物を失うことになると考えて、 愛から自分を守ろうとしますが、そのわずかなもののために、 多くを失っていることに気づけません。 私たちは、今、その制限を超えることができる場所まで、来ているのです。 自我を手放しても、私たちは何も失うことはありません。 豊かさも幸せも愛とともにあり、愛のない幸せも、愛のない豊かさもありえません。 自我を手放すことは、自分が消え去るように感じられ、 自我の抵抗に耳を貸したくなったとしても、それは偽りにしか過ぎないのです。 私たちを守ってくれるのは、愛である神であり、 恐れによって、脅しながら従わせる自我ではありません。 愛の導きが、私たちの行く手を照らし、愛は両手を広げって、待ってくれています。 ☆2… Pickupひとことガイダンス …………

第672号 2021/10/9

 ☆………………………………………………………………………………………☆ ☆    Let's go spiritual with your angels☆ 第672号 2021/10/9     ☆  ☆ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄☆ ♪人生をエンジェリックでハッピーにしたい、あなたのために♪ ☆1… 光を見る ……………………………………………………………………☆ 私たちは、自分が神の子としての資格を失ったと考えて、神の声に耳を塞ぎ、 神から遠ざかってきました。 神とひとつだという認識ができないように、神と自分との間に、様々なものを差し挟み、 それぞれが独立しているように見せかけ、複雑化させて、真実であるように見せかけました。 しかし、それでも、真実は失われることなく、私たちの心の中にあり、 愛を求める心は、ある瞬間に、再び、神の呼びかけを聞くのです。 私たちの目は、存在しないはずのものを見ることに捧げられ、 愛でないものに慣れきっており、また、自分自身が、光の中では、 見るに堪えない姿であると信じて、光を恐れてきました。 神の導きは、私たちが、神に創造されたときのまま、清らかであり、 真実を見ることに、何の恐れも必要ないと教えてくれます。 私たちは、再び光を認識することに、少し、慣れなければいけないかもしれません。 それは、この世界に慣れた目には、あまりにも清らかで、 あまりにも美しく感じられるからです。 それでも、今、私たちは、準備が整っています。 自分が汚れているという信念は、すでに、誤りだと認識され、 愛のなすがままに、高みへと運ばれようとする意図は、明確になっています。 目を閉じて、神の助けを受け取りながら、自らの内側に目を向ければ、 そこには、清らかな光があるでしょう。 それを受け入れれば受け入れるほど、光は明るくなり、 私たちから、広がっていきます。 清らかさに差異はなく、同じものは繋がるだけであり、 どこにも敵はおらず、妨げるものもなく、喜びが増大するばかりです。 この世界で価値があると信じられてきたものは、愛の光の中で色褪せていき、 真に価値あるものが、真実として受け入れられるでしょう。 私たちは、神に創造された清らかな愛の光であり、それを認識することは、 ただ、自然で、当たり前のことなのです。 ☆2…

第671号 2021/10/2

 ☆………………………………………………………………………………………☆ ☆    Let's go spiritual with your angels☆ 第671号 2021/10/2     ☆  ☆ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄☆ ♪人生をエンジェリックでハッピーにしたい、あなたのために♪ ☆1… 愛こそすべて ………………………………………………………………☆ 愛はすべてであり、遍在しています。 ですから、私たちは、この世界の中のすべての場所で、愛を見ることができます。 私たちがどのように自分を認識していたとしても、私たちの中に愛があるからです。 自我は、自分と同じ、自我を認識します。 肉体の目は、そのためのものであり、愛でないものを探し、 見つけることを目的としています。 自我とは、それ自身の定義によれば、愛でないものですから、 愛と分裂して、愛でない様々な属性を持った個別のものを認識することで、 自らの存在を証明し、安心するのです。 自我は愛ではない自分は悪いと思っています。 そして、自分だけが悪いのは嫌なので、誰もが同じように悪いことを望んでいます。 自我は常にだれの中にも、愛でないもの、悪い部分を探しています。 表面的にどれほど美しく清らかに見えても、その背後にある裏の顔や本性として、 悪い面を見れば、自分だけが悪いのではないと思えるからです。 それは、善悪とはかかわりなく、自分が悪いという誤った信念の上で作動する 仕組みのようなものであり、自我は、どうやっても幸せになることはできません。 しかし、私たちは、自らが愛だと認識することで、 新しい認識、新しい視覚を持つことができます。 愛は、愛を探し、見つけ出します。 今まで、自我が悪を見出していた場所に、愛が見られるようになるのです。 それは、解釈の問題ではありません。 自我の土台の上で、認識するか、 愛の土台の上で、認識するか、 ということなのです。 私たちは、どのようにしたら、それができるのかわかりません。 しかし、自我だと信じていたときには、自我の視覚が当たり前だったように、 自分が愛だという認識に至れば、愛の視覚が当たり前になります。 認識の変化は、自己認識の変化とともに、自然に訪れるのです。 私たちの視覚が愛に属するものへと変化するように、愛である神